2003~2020年度の川崎医科大学衛生学の記録 ➡ その後はウェブ版「雲心月性」です。
衛生学教室とのご縁
同門会誌(1999年)によせて,初代助教授 中村文雄先生より
衛生学教室とのご縁
中村 文雄
 今年明けて数えの八十歳を迎え、履歴を語る頭脳も書類も雑然として、正確な記録を語るには荷の重さを感じる。そこで第一期生アルバム委員会、昭和五十一年発行の KAWASAKI MEDICAL COLLEGE という大アルバムをひもとくと、衛生学のタイトルの下に光栄にも望月義夫教授のお写真と一対に麗々しく中村文雄助教授と記した写真が掲げられている。さらにもう一葉、教室のスタッフとして三麗人と共に並んだ写真がある。正しく衛生学教室の一員であったのであるが、名のみで実は教室に何の貢献もなく、一年で大学を去った。写真写しも良くて、永い生涯のアルバムの中で最高のものである。事実またこの時代が我が人生のハイライトであった。しかしながら衛生学助教授という名は決して謙遜ではなく、身分不相応であった。それが何故にこうなったのか。そのいきさつを述べておきたいと思う。

 未だ大学の胎動さえなかった頃、川崎病院長川崎祐宣先生は、病院の優れた専門技術と設備を動員して、進んで地域、職域の健康の保持増進に奉仕しようとの理念を抱いておられた。かねて親しくして頂いていた、当時旭川荘児童院長、江草安彦先生のお引き合わせが縁となり、昭和四十三年、川崎病院初代公衆衛生科長を拝命した。何気なく、公衆衛生科と称したが、法的にはこの診療科名を標榜することは許されない。表玄関に内科、外科などと並んで掲示はできず、院内に大きな看板を作ってもらった。

 そもそも衛生学は西欧医学を範として、明治初期に確立されたが、公衆衛生学は太平洋戦争の後、始めてわが国に導入された。公衆衛生は衛生学を衆に及ぼした実践医学であるとも言われ、衛生学の一分野とも言える。しかし藍は藍より出でて藍よりも青しとか、公衆衛生学は衛生学とは全く対等の学問であろう。

 わが国の大学では公衆衛生が衛生学を母体としたことから、学外の者からは両者の区別がつかず、私自身の目にも今もって第一衛生学、第二衛生学として映ずることがある。

 さて川崎病院公衆衛生活動は、公衆衛生の一分野であった。私はひそかに臨床公衆衛生と称して、岡山県下一円を巡回し、集団検診に重点を置いた。第一に胃癌の早期発見を目的とした、消化器検診。第二は子宮癌の早期発見のための婦人科検診。それぞれ放射線科、婦人科に主管をお願いした。第三に一般成人病検診を公衆衛生科が直轄主管した。これは早期発見すなわち二次予防ではなく、また健康人一般を対象にした第一次予防でもない。一・五次予防ともいうべきか、健康度のチェックである。疾病とは言えないが、体の一部に健康不全があれば、特にその面について生活習慣改善の動機づけを与え、その他の項目に対しては安心感を与えようとするものである。最近「早期早期予防」という字句を用いたものを見たが、良い用語だと思う。

 数年後に大学が創設され、川崎先生は私に「文部省に努力したが、駄目だった」と申された。多分教授に推薦したが、という意味だったと思う。それなら当然のことであった。当時まだ学位を拾得していなかったし、格別の業績があったわけではないからである。当時私は岡山大学衛生学教室の専攻生として研修中であった。教授は大平先生であり、助教授が余人ならぬ望月先生であった。後年私が川崎医大に籍を置き、付属病院としては公衆衛生部に属しながら、大学としては衛生学教室に助教授の栄を賜ったのは、このためだったに違いない。また公衆衛生が広い意味の衛生学の一部と解釈できたからでもあろう。

 大学誕生当時、学生のクラブ活動の中に、医療福祉部と称するものがあった。内容が私の業務活動に近かったので、相談役となった。毎週ミーティング、夏休みには県北無医村に宿泊して成人病検診を行った。僻地は無医村でなくても医療体制に格差があった。その解消のために川崎医大を本拠地とした医療体制を樹立しよう。すなわち医大と交流のある医師常駐の診療所を設け、単科は週一回派遣、公衆衛生活動は年一回実施するなどの夢を語ると皆共鳴してくれた。

 大学に移籍すると同時に、病院時代の消化器検診、婦人科検診と一般成人病検診を大学本部に統合する役目を担った。それが完成すれば退任と心に決めていたが、やがて岡本教授が公衆衛生部長として就任され、予定の一年を経て五十一年三月に大学を辞した。その後、岡本教授も退任され、大学上層部から、再三私の復帰を勧められた。無性に帰りたかったが、現職から抜けられず、後ろ髪、否、前髪を引かれる思いで、泣く泣くお断りした。わが人生最大の後悔事であった。しかし後悔は愚かである。これからの日々を大切にし、短い余生を悔いなく送りたいと願っている。